由緒と歴史

現人神社の由緒

全国に二千余社ある住吉三神をお祀りする神社。
現人神社は、その住吉三神のルーツであり、最古の神社です。

はじまりは、世界が混沌としていた神話の時代。
世界を作りし男神・イザナギノミコトは、女神・イザナミノミコトが亡くなったことを嘆き悲しみ、黄泉の国(死んだ人がいく国)を訪ねます。
しかし、女神・イザナミノミコトの体は腐って崩れており、男神・イザナギノミコトは怖くなって逃げだしました。
黄泉の国に行き死んだ人たちに触れてしまった穢れを祓うために、男神・イザナギノミコトが禊を行ったところ、三柱の神様が生まれました。この三柱、底筒男命・中筒男命・表筒男命のことを、「住吉三神」と呼びます。
この三神は穢れを祓う神様であり、また、 現世に人の姿で現れて、人々を導く神様として知られています。
神代の昔、イザナギノミコトは西隈の那珂川のほとりの立花木(現人神社のすぐそば)で禊を行ったと著名な国学者・青柳種信は、「筑前国続風土記拾遺」の中で考察しています。古代の海岸線は現在よりもかなり内陸に入れ込んでおり、弥生時代には福岡市内のほとんどが海中だったと九州大学名誉教授山崎光夫博士も唱えております。
これらのことから、イザナギノミコトが禊を行ったのは那珂川であり、住吉三神がうまれたのは現人神社のすぐ傍だったと理解できます。遙か昔から住吉三神は、この現人神社の地にお祀りされていました。

1800年前の仲哀天皇の御世に神功皇后が大陸遠征されたときには、住吉三神が「人の姿になって現れ」嵐をしずめ、水先案内をしました。嵐がしずまった海を渡り、無事に大陸遠征を果たした神功皇后は、神恩に感謝し、祈請(うけい)によって当地をお知りになりました。神功皇后は、「人として姿を現した」ことから住吉三神を「現人神」と呼び、那珂川の水を引いて神田を潤し五穀豊穣を祈念して、「現人大明神」の尊号を授けられました。

現人神社のご祭神とご神徳

昔、神功皇后(じんぐうこうごう)というお后様が日本を治めていました。お后様は国内だけでなく、海外へも目を向け、海を渡った先にある国とも国交を結び、更に国を豊かにすることを考えられました。
しかし、当時は乗船技術も乏しく、海を渡るのは大変危険とされ、また相手の国からは"敵がやって来た!"とみなされ攻撃を受ける可能性もありました。そんなお后様の窮地を救ったのが、現人神社(あらひとじんじゃ)の神様の住吉三神(すみよしさんじん)です。
住吉三神は人の姿でお后様のもとへ現れ、船旅の間、荒れ狂う波風を鎮め、また相手の国の人々が矛を納め、誰も傷つくことのないよう働きかけ、無事に国交を結ぶことができ、日本の国が豊かになりました。このことから現人神社の神様は仕事を成し遂げる上で助けてくださる「仕事運の神様」として知られるようになりました。

仕事をする上では日々さまざまな困難に立ち向かう必要があります。
そんな皆さまを現人神社の神様はきっと目に見えないお力でサポートしてくれるはずです。

相殿
神功皇后(息長足姫命)
古代日本の美しき皇后です。聡明で容姿端麗、皇后でありながら神のお告げを伝える巫女でもありました。住吉三神のお告げを聞き、男装して軍を率いて海を渡り、住吉三神のお力を借りながら無事に日本と新羅、高句麗、百済との関係を築きました。その後、住吉三神の神恩に感謝し、現人神社の地を訪れ「現人大明神」の尊号を授けます。そして現人神社の地に灌漑水路を作り金色の稲穂で大地を埋め尽くします。
その時出来た水路を「裂田溝」(さくたのうなで)と言います。日本書紀の記述によると、この大掛かりな土木事業は、途中、大岩に阻まれ難航します。神功皇后は、武内宿禰(たけうちのすくね)を遣わし、迹驚の岡(とどろきのおか)で天神地祇(てんじんちぎ)に祈ります。

すると、突如雷が落ち、岩を蹴り裂いて水を通させました。こうして難航した工事は、無事に成し遂げられ、当時の那珂川市の発展に大きく貢献しました。そのことから神功皇后は「工事安全」「天地鎮護」。そして、民の生活を潤したことから「事業繁栄」「五穀豊穣」。また、帰国後、応神天皇を無事にご出産されたことから「安産」「家運隆昌」のご加護がえられます。

現人神社の歴史

神代の昔、伊邪那岐命が黄泉国で受けた穢を祓う為、現人神社のそばで禊祓いをされた際に生まれたのが住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)です。(詳しくは青柳種信の立花木の考察をご覧ください)
約1800年前、神功皇后により、神功皇后の命により、藤原朝臣佐伯宿禰が祀官を務めるようになりました。平安時代になると、朝廷より派遣された大蔵原田氏、少弐氏により尊崇を受け、広大な境内を有し繁栄を極めました。博多の住吉神社とともに、後白河院領として広大な領地を有していたのです。
約900年前の寿永年間、太宰少弐原田種直が岩戸河内(那珂川市安徳)に館を設けた頃より、現人神社は岩戸郷二十三ヶ村(那珂川市)の総社として仰ぎ奉られました。
神領・神田等多くの寄進があり、原田家の厚い崇敬を受けました。社人も三十余名おり、官幣も捧げられる程に繁栄しており、御幸・流鏑馬・大相撲等、神事も盛んでした。しかし、約400年前の戦国時代(天正十四年)、島津軍との戦乱のため現人神社も戦火を蒙りました。社殿・神宝・古文書・縁起がことごとく焼失し、社人三十余名も戦乱に命を落としました。佐伯刑部の跡取り・松千代(当時7歳)が一人だけ生き残り、祀官を継ぎ今に至ります。
300年前の元禄年間、当時の地頭であった黒田靭負重実のもとで、村人が現人神社の復興を図り、現在の神殿が再建されます。正徳四年(1714年)には石の鳥居が奉納されます。

天明七年(1787年)に第九代藩主黒田斉隆が参拝、石灯籠一対の寄進がありました。常夜燈(文政七年)、手洗鉢(天保十四年)、狛犬(明治十五年)、注連掛石などがあります。拝殿の中には、文政七年(1824年)に第十代藩主黒田斎清により寄進された絵馬をはじめ、嘉永六年に斎藤秋圃の描いた絵馬など、天保・嘉永・文久年間に奉納された古い絵馬があります。また再び様々な祈祷が盛んに行われるようになります。

明治五年には、太政官布告により現在の現人神社に改称されました。
これらの歴史がすべて残るほどに伝統を受け継いできた現人神社では、現在も神事復興に勤め、人々のやすらぎの象徴になれるよう尽力しております。