福岡県筑紫郡那珂川町の現人神社の公式サイト。初宮詣・七五三詣・厄祓い・交通安全・家内安全・商売繁盛・地鎮祭・上棟祭・竣工祭・家祓い・神葬祭

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現人神社(住吉三神本津宮)

鎮座地

福岡県筑紫郡那珂川町仲三丁目六番二十号

御祭神

底筒男命、中筒男命、表筒男命

神宮皇后、級長津彦大神、安徳天皇

御由緒

当宮の主祭神である底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神は、記紀神話によると伊邪那岐命が黄泉の国で受けた穢れを祓うため禊をおこなった時誕生した神とされています。これら三神は、三貴神(天照大御神・月読命・須佐之男命)に先立って生まれた神であり「祓の神」という大切な神格を持っています。また仲哀天皇の御世(約1800年前)神功皇后が大陸遠征されたとき、この三神が荒れ狂う海原で苦難する皇軍の船の舳先に姿を現し、禊の神として皇后の身を護り玄界の逆巻く波風を鎮め、船の水先案内をも務めたと伝えられています。このことが、当宮が国家守護の神・天地共に鎮めの祖神として信仰されるに至った由縁です。大陸遠征から無事帰還した神功皇后は神恩に感謝し、神さまが現世に姿を現したことから「現人神」と称し、その鎮座の地に竹内宿禰を遣わし、神田に水を引き五穀豊穣を祈請して、現人大明神の尊号を授けられました(現人神社名称の起源)

また、霊験あらたかな現人神の和魂は、皇后大和への帰還の際、眞住吉之国(住みよい国)と仰がれた摂津(大阪)の地にお祀りされたことにより、筒男の三神たる現人神は、住吉三神とも称されるようになりました。福岡の住吉宮も後に当宮より御分霊され、筑前一宮となりました。住吉三神をお祀りする神社は、全国津々浦々に二千余社を数えますが、現人神社は、その住吉三神の本津宮にあたります。

現人大明神の尊号を授けられた後、藤原朝臣佐伯宿禰が、祀官を務めるようになり、寿永年間太宰少弐原田種資が岩戸河内に館を設けた頃より、当宮は岩戸郷二十三カ村(那珂川町)の総社として仰ぎ奉られました。神領・神田等多くの寄進があり、祭祀は原田家が執り行い、社人も三十余名いたといわれています。この頃は、官幣も捧げられる程繁栄していました。しかしながら、天正十四年(戦国時代)高橋紹運が、この地を治めていた頃、島津軍との戦乱のため当宮も戦火を蒙り、社殿・神宝・古文書・縁起に至るまで悉く焼失し、社人三十余名も戦乱に命を落としました。佐伯刑部の一子松千代(当時七歳)一人生き残り、後に祀官を継ぎ今に至ります。

元禄年間、黒田靭負重実が当地を統轄してより、藩主のもと村人等が復興を図り、正徳四年現在の神殿が再建され、天明七年黒田斎昭の参詣を受け、石灯籠一対の寄進等があり、黒田斎清が絵馬等を奉納。天地鎮護や五穀豊穣の祈祷が盛んに行われました。 明治五年太政官布告により、現在の現人神社に改称。当宮は、神功皇后より尊号を賜ってより、天地共に鎮めの祖神と仰がれ、風雨を治め大地を鎮め護る神として、今に地鎮祭等をはじめ厄祓・災難消除等の祖神として、広く崇敬を集めています。

参考情報

裂田溝(さくたのうなで)
日本書紀神功皇后紀に曰く、皇后神の教えの験ある事をしろしめして、更に神祇を祈り祀りて、みずから西をうち給はんとおぼしめし茲に神田を定めて佃せらるる時に、儺河の水を引いて神田につけんとおぼして溝をほらせらる。迹驚岡に及んで大磐石ふさがりてとをすことを得ず。皇后武内宿禰をめして、剣鏡を奉りて神祇に祈りて溝を通す事を求む。則時に雷電霹靂して基盤を蹴裂て水を通ぜしむ。故に時の人其の溝を裂田溝というと日本書紀に見えたり。

この神功皇后縁の裂田溝の横に、現在では裂田神社があり、神功皇后をお祀りしています。当宮より徒歩20分程の距離であり、神功皇后が、渡韓にあたり、神の御教えを受けし、大神こそ当宮であり、渡韓の後、無事帰国の際は、御姿を現され、荒波を鎮められし御神慮を尊び、皇后自ら、「現人大明神」の尊号を授けられ、佐伯宿祢を祀官とされ、兵士に流鏑馬と相撲を奉納させ、神慮を慰められた。

裂田溝

安徳台
安徳台は、往古迹驚岡(とどろきのおか)といわれ、のちに御所が原とよばれた。迹驚岡のおこりは、神功皇后が神田に水を引くため溝を開かれたとき、雷電霹靂して大磐石が蹴破られた。すなわち雷が轟き落ちて溝を開いたところの岡であるということによるものである。 御所が原のいわれは、古代安徳に磐瀬に行宮があった。斉明天皇が来られたことから御所が原の名があった。後にここに原田種直が、源平合戦時に安徳天皇を一時迎えたことから、安徳台とよばれる。安徳台の南西にあたって、那珂川をへだてて「御迎」というところがある。原田種直が安徳天皇をお迎えしたことによる。

当宮氏子地に御縁の安徳天皇を偲び、現在当宮に合祀される。

絵馬

日刊フクニチ所載「太宰府」-昭40-2-2の記事
―3世紀のころ中国で、三国志が著された。(日本の神代の時代)その中の魏志倭人伝の項に「朝鮮から海を渡って対馬 壱岐を経ていくと伊奴国に出る。ここは代々王がおりすべて女王国に属し 大率が置かれ朝鮮と往来する使者はここで吟味される」とある。女王国とは邪馬台国のことであろう。三世紀のころ邪馬台国の女王は、中国や朝鮮に対する渉外機関として、糸島に出先機関を置いたわけである。その伝統は、二、三百年後大和朝廷が出現しても伊奴国大率の代わりに那の津の国の宮家として残ったものと思われる。 福岡市南区の三宅小学校の校庭の片隅に小さな森がある。そこに古びた社があり、その前に手洗鉢があるが、この石は二十八代宣化天皇の頃の千四百年のむかし、那の津の浜辺にあった倉庫や官庁(宮家)の礎石の一つであった、と考えられている。したがって当時の海岸線は三宅付近まで、入り込んでいたものと思われる。
千四百年前の海岸線が三宅付近であったとすれば、それより三百年前の神功皇后の頃の海岸線は那珂川町まで入り込んでいたと考えても、おかしくない。

境内社

境内社写真
境内社写真
境内社写真

六一神社 (ろくいちじんじゃ)

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、速玉男尊(はやたまおのみこと)、豊受姫尊(とようけひめのみこと)、軻遇突智尊(かぐつちのみこと)、瓊々杵尊(ににぎのみこと)の六柱の神を合わせ、六一神と称して、祀られたのであろう。上古は、現人神社の子の方(北側)にあたる六一森に鎮座されていたが、天正年間の兵災により、烏有となり、現在地に遷される。いまでは、跡地を六一様と呼び、十二月六日に境内社の六一神社より、神幸されている。

薬祖神社 (やくそじんじゃ)

少彦名尊(すくなひこなのみこと)、玉依姫尊(たまよりひめのみこと)を祀る。病気平癒の御神徳著しい。

天満神社 (てんまじんじゃ)

菅原神(すがわらのかみ)、大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀る。寛政四年(1792)に勧請され、大正二年に東隈の田神社を合祀した。

金比羅神社 (こんぴらじんじゃ)

天満神社と同祠である。祭神は、大物主命(おものぬしこみこと)で、航海安全の神である。